そ のため10年後の日露戦争では陸軍の被害はさらに拡大した。戦死(即死)者4 万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万 7800余名にのぼった。 日露戦争 約84,000人 とあります。 (2)『日本の戦争 図解とデータ』(桑田悦 原書房 1982年)によると 日清戦争 戦死1,417人 病死11,894人 変死177人 日露戦争 約118,000人(服役免除含む) とあります。 「日本陸軍の兵站戦」のバックナンバー 日露戦争の将兵は何を食べていたか?-脚気の惨害(1) (2016年(平成28年)3月16日配信)です。   加藤昇の 大豆の話 Ⅰ-5 日露戦争と大豆 大豆が最初に生まれたところがどこであったか、については今もって明確にされていませんが、20世紀の始め頃の大豆の主産地が中国東北部であったことについてはあらゆる資料で確認することが出来ます。  このように、脚気の原因が食料にあるとする高木説に対し、脚気細菌説をとる陸軍の石黒、森らとの間に大きな論争となりましたが、日露戦争に突入しても陸軍の白米至上主義は変わず、戦地では多くの犠牲者を出すことになったのです。この間の海軍での脚気患者は僅かに数十名で死亡者はゼロだったということです。  パン食が日常の欧米人や麦飯をとる人にはこのような病気のみられないことから、食事に関係しているらしいことは薄々分かっていたようですが、当時は戦地に行けば白米が食べられるという貧しい時代で、戦場では死地に行かせる兵士に白米を腹いっぱい食べさせたいという部隊長らの心情も強かったようです。 日清戦争・台湾討伐・日露戦争では 白米のみを送り続け (麦飯を禁止し)た結果 大量の脚気患者を出しました。 純粋な戦闘による死者よりも 脚気による死者が多かったので 地獄のような惨状を呈しました。 日露戦争では 1905(明治38)年3月 B1不足による脚気心  このように脚気の原因も明らかとなり、種々の副食がとられるようになり精米技術も進歩して脚気はほとんど影を潜めました。しかし、最近になってインスタント食品やジャンク菓子の普及により、極度の偏食をする人の多くなったことや、アルコールの大量摂取者も増えたことで、再び脚気が問題視されています。, 〒101-0047 東京都千代田区内神田2-7-10 松楠ビル6階 日露戦争(1) 戦争の経過 日露戦争について(復習) おはようございます。 日露戦争を2回に分けて見ていきたいと思います。 前半の今日は戦争の経過を見ていくことで、具体的な戦争がどのような論理によって動かされるのかを見ていきたいと思います。 日清戦争で脚気による死亡者が多かったことを証左する資料として、陸軍省医務局公式記録「明治二十七八年役陸軍衛生事蹟」があり、そこに、戦死者977人に対して脚気による死亡者は4064人とあ … 日露戦争を通じて陸軍では約27000人の脚気による死者を出したが、兼寛によって麦飯を導入した海軍では一人の死者も出さなかったことで、その論争は日露戦争を機に終結。 日清戦争で白米を給与した陸軍では脚気が暴発。寺内正毅や土岐頼徳等麦飯推進者もいましたが石黒忠悳・森鴎外らは麦飯給与に反対しました。その結果の脚気患者数と死者数は公式記録に「古今東西ノ戦疫記録中殆ト其類例ヲ見サル最モ注目スヘキトコロトス」と記されています。 2-1 日清・日露戦争の頃、日本にナイチンゲールのような人がいたら・・・ 日清・日露戦争の頃は、まだ脚気の原因(ビタミンB1欠乏)が解明されておらず、深刻 な問題でした。海軍と陸軍の脚気対策4は明暗を分けることとなりました。島村史郎元総理 日本の脚気史(にほんのかっけし)では、日本(大日本帝国)で脚気の流行が国家的問題となった明治時代から、脚気死亡者数が1千人を下回った1950年代後半までを主として、脚気の原因を巡る医学界の混乱とその収束、軍事上の要請が特効薬の開発に波及した経緯などを記述する。, 日本で脚気がいつから発生していたのかは定かではないが、『日本書紀』に同じ症状の病の記述があり、元禄年間には米を精製する習慣が広まり、特に江戸で多く「江戸患い」と呼ばれ、経験的に他の精白されていない穀物を食べた。明治時代には、1870年(明治3年)には翌年にかけて脚気が流行。明治末までに毎年6,500人から15,085人死亡したとみられる。, 大日本帝国海軍軍医の高木兼寛は、イギリスの根拠に基づく医療に依拠してタンパク質摂取量不足が原因だと仮定して、洋食、麦食を試み、1884年(明治17年)の導入により1883年の23.1%の発症率を2年で1%未満に激減させた。理論は誤っていたものの疫学の科学的根拠は得られていたということである。, だが、当時医学の主流派は理論を優先するドイツ医学を模範としていたため、高木は批判された。また、予防成績も次第に落ちて様々な原因がいわれたため、胚芽米が導入された。大日本帝国陸軍は科学的根拠なしで謎の対抗をして、白米を規則とする日本食を採用し続け、『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人が脚気が原因であった。陸軍はその後も脚気の惨害に見舞われた。, 農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると脚気のような症状が出るが、米糠、麦、玄米を与えると快復することを報告。翌年、糠中の有効成分を濃縮しオリザニンとして販売されたが、医学界は受け入れなかった。伝染病説と中毒説が科学的根拠なく、学説の域を出られないまま支配的で、栄養欠乏説は受け入れられなかった。, 1912年に、ポーランドのカジュミシェ・フンクが『ビタミン』という概念を提唱。国産の栄養説を俗説とさげずんだが、外来の栄養説を後追いし、陸軍主導の調査会には、真因を追及する能力はなかったとも指摘される[1]。陸軍が白米を止め、麦3割の麦飯を採用したのは、海軍から遅れること30年後の1913年(大正2年)だった[2]。, 大正以降、ビタミンB1(チアミン)を含まない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分に摂らなかったため、脚気の原因が解明された後も、ビタミンB1の純粋単離に成功した後も[注 1]、多くの患者と死亡者を出し、結核と並び脚気は二大国民病といわれた。, ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年(大正12年)の26,796人がピークであり、1915年(大正4年)から日中戦争の拡大と移入米の減少[3]によって食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで年間1万人〜2万人で推移した(翌1939年12月1日、白米禁止と7分つき米の強制[4])。ようやく1千人を下回ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する、1950年代後半のことであった[注 2]。, 1975年(昭和50年)頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してきた[5][6][7]。1997年(平成9年)には、死亡を含む重症例が相次ぎ、厚生省は高カロリー輸液の点滴の際に、ビタミンB1を投与するという通達を出した[8]。アルコール依存症患者にも、脚気は多い。, いつから日本で脚気が発生していたのか、はっきりしていない[9]。しかし、『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されている。日本では平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している。, 江戸時代に入ると、玄米に代わって白米を食べる習慣が広まり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。将軍をはじめとした上層武士に脚気患者が多かった。13代将軍徳川家定は、脚気が原因で死亡したともいわれている。特に江戸では、元禄年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも脚気が流行した。, 江戸を離れると快復に向かうこともあり、「江戸患い」と呼ばれた。領地では貧しく白米を食することのできなかった地方武士も、江戸勤番では体面上白米を主食としたため、江戸在住期間が長引くとこの病いにかかる例が多かった。, 江戸時代中期以降、江戸で蕎麦が流行した。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、「江戸わずらい」[2]と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できたことにもよる[10]。漢方医学では療法として用いられていた。経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。, 明治時代には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気が流行った。東京など都市部、陸軍の鎮台所在地の港町で流行し、上層階級よりも中・下層階級に多発し死亡率が高かった。『人口動態統計』(1899年開始)と『死因統計』(1906年開始)によれば、明治末までの国民の脚気死亡者数は、最小6,500人(1900年)、最大15,085人(1909年)であった。ただし当時は、乳児脚気の知識があまりなかったため、乳児の脚気死亡が大幅に見落とされており、毎年1万人〜3万人が死亡していたと推測されている。, 明治になると陸軍軍人の職業病として国家的問題になった。明治6年に公布された徴兵令の目玉は、1日6合(江戸時代の「一人扶持」は1日5合だった)の白米を食べさせるという特典であったため、軍人に罹患者が多くなった。建軍期には海軍がイギリス、陸軍はフランス、後にドイツを範としたため、海軍は栄養由来説、陸軍はドイツの細菌説を取っていた。後に、陸軍軍医総監石黒忠悳と次の森鷗外が海軍の米食由来説を批判したため、陸軍は脚気の被害を多く受けたといわれ、鈴木梅太郎のオリザニン発見、さらにビタミンの発見までこの状況が続いた。陸軍が「白米6合」を止め、麦3割の麦飯兵食を採用したのは、海軍から遅れること30年の大正2年だった[2]。, 脚気の原因が分からなかった明治期、脚気の流行に拍車が掛かり(都市部の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。脚気の原因が分からなかった理由として、色々な症状がある上に病気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい食物を摂っている者が冒されて一見粗食を摂っている者が冒されないこと、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの形成に不可欠な「微量栄養素がある」という知識がなかったことが挙げられる。, 明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」[11]は、たちまち医界で受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持され続けた。海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人医師のウィリアム・アンダーソン(1873年(明治6年)10月-1880年(明治13年)1月に在日)も伝染病説を信じていた[12]。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤りであり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原因である。, ビタミンの先覚的な業績を上げたのが、大日本帝国海軍軍医の高木兼寛であった[13]。臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはタンパク質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。, その時点で脚気の原因は、タンパク質の不足にあり、洋食によってタンパク質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折を経て1884年(明治17年)1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の節約による粗食を招いていた)が一部見直され、洋食への切り替えが図られた(標準指定金給時代1884年・明治17年-1889年・明治22年)[注 3]。, 同年2月3日、大日本帝国海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験を兼ねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海を終えて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づく医療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革を進めた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、および死亡数が1883年(明治16年)1,236人、23.1%、49人、1884年、718人、12.7%、8人、1885年、41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した[14]。この航海実験は日本の疫学研究の走りであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる[15]。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌1885年(明治18年)3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。, 1885年(明治18年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範としていたため、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むタンパク質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象を与えた。そのため、東京帝国大学医学部を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月25日には、同誌に村田豊作(東京帝国大学生理学助手)の反論が掲載され、特に同年7月の大沢謙二(東京帝国大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は、机上の空論であることが実証された。, また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問を持たれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回にわたって公表したものの、翌1886年(明治19年)2月の公表を最後に学理的に反証しないまま沈黙した。のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐したように[16]、高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得られなかった。, 高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べると脚気が減少する」という 疫学上のエビデンスは得られていた。その後も海軍軍医部は、後述の通り日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判したものの、麦飯優秀説について学問上の疑問点を挙げて反論されると両軍医とも沈黙したなど、ドイツコッホ研究所帰りの森林太郎(森鷗外)など病原菌説を唱える陸軍医たちの疑問を払拭するに至らなかった(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)[17]。, 高木の思いに反して兵員には、「銀しゃり」という俗語のある白米飯に比べて麦飯も不評であり、1890年(明治23年)2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ないし麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2割5分まで低下した[18]。, 学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の脚気患者が発生しただけであり、後述する陸軍の脚気惨害と対照的であった。当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっている」[19]とされるような状況であった。ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚気の入院率が50%〜70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気の入院率は数%)[20]。その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医ではなく、栃木県出身で東京帝国大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。, 脚気患者の増加を受けて海軍省では、1921年(大正10年)に「兵食研究調査委員会」を設置し、1930年(昭和5年)まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない麦飯で麦の比率を上げることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しい中、苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。1927年(昭和2年)から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は1933年(昭和8年)9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した[21]。島薗の胚芽米の提唱には、脚気に対する胚芽米の研究を行っていた香川昇三と香川綾らの研究が役に立っていた[22]。しかし、胚芽米を作る機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が多発する夏に供給するのが困難であったことから、現場で研究の成果が十分に現れず、脚気患者数は、1928年(昭和3年)1,153人、日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下回ることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)は3,079人(うち入院605人)であった[23])。また、現場で炊事を行う主計科では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコ」(船乗りのジャーゴンで「海面に let's go」の意という))ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛けた。, 戦前、「海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型まで統計に上るようになった事」[24](それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)と指摘されていた。また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)[注 4]、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、タンパク質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰が崩れたこと[25]との指摘もある[26]。, 海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用した(1894年(明治27年)7月31日)[27]。ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官を務める石黒忠悳(陸軍省医務局長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった[28]。, 戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、しばしば兵站が滞った。特に緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口にする状況であった。黄海海戦後、1894年(明治27年)10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られている中、事態を憂慮した土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年(明治28年)2月15日)。しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運すこぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に至らさりしは、最も遺憾とする所なり」[注 5]と、結局のところ麦飯は給与されなかった。その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したとされる(もっとも上記の通り勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限が与えられた[29])。, 下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定(乙未戦争)では、高温という脚気が発生しやすい条件の下、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した[30]。しかも、1895年(明治28年)9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた[31]。しかし、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」[32]という石黒の意見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないとした[33]。そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し(1896年(明治29年)1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮まる兆候がなかった。ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。, 陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人 (72.3%) が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。ちなみに、総病死者20,159人で、うち脚気以外の病死者が16,095人 (79.8%) であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』[34])。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)[35]など、さまざまな数字がある。多数の病死者が出たように、衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病がはやり、また広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も安全とはいえなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ1895年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った)。特に台湾では、暑い季節にゲリラ戦に巻き込まれたため、伝染病が蔓延し、1895年(明治28年)10月28日、近衛師団長の北白川宮能久親王がマラリアで陣没し[36]、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった[37]。なお、台湾での惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っている中、隠蔽したい出来事であった。, 上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定を併せて41,431人(脚気以外を含む総患者284,526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[38])であった。このように陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく[39]、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。, トップの陸軍省医務局長が小池正直に替わっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃発し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣された[注 6]。そのときも、首都北京を巡る局地戦が主で輸送に支障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の脚気患者が出た[40]。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。, 1901年(明治34年)5月31日、凱旋した第5師団に代わって清国駐屯軍が置かれたとき(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長に与えた訓示[41]は、上記の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった[42]。なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』に続けて投稿(1901年(明治34年)5月と7月に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠回しの表現で米飯が脚気の原因という認識を示した。しかし、翌1902年(明治35年)4月の『明治三十三年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』には、なぜか脚気のことを全く記述していない。そして日清戦争で先陣を務め、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11師団に異動した[43]。, 日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として輸送の制約が挙げられ、陸軍は兵員と兵器と弾薬などを送るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった(近代地上戦での想定補給量の一例)[44]。さらに「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い[45]、輸送が困難などの反対論がつよく」[46]、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民憧れのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった[47]。, しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増え始め、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦飯が給与され[注 7]、翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られ始めると、陸軍衛生部さらに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池正直(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿が続いた[48]。, 陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人 (4.6%)、戦傷153,623人 (15.4%)、戦地入院251,185人 (25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異なる[49])。戦地入院のうち、脚気が110,751人 (44.1%) を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)を併せると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率を見ると、歩兵1.88%、騎兵0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒5.32%であり、「軍夫」と呼ばれていた補助輸卒の数値が著しく高い(1904年(明治37年)2月〜翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人に次いで30,559人と多く、過酷な条件の下任務に就いていた)[50]。入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡したと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。, 陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げ続けて孤軍奮闘する中(ときには火に油を注ぐようにして陸海軍の対立をあおった)、1908年(明治41年)、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された[51](同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日陸軍大臣官邸で発足式)[52]。当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、多額の陸軍費がつぎ込まれた。, 発足当初の調査会は、会長(森・医務局長)と幹事(大西亀次郎医務局衛生課長)、委員17名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計21名で構成された。委員17名の所属を見ると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参加したほか[53]、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大1名、東京帝大3名、医師2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)であった。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、定期的に発表された。, 調査会の発足式が開かれる直前の1908年(明治41年)6月22日、森(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテルで会っていた[77]。脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリベリを研究せよ等の研究法を助言された[78]。調査会の発足後、早速バタビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった[79]。, 1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝染病研究所)の3委員が派遣[80]されたものの(9月27日〜11月28日まで滞在)、現地では白米を止めて熟米と緑豆などを食べるようになっており、また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者がほとんどいなかった。それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)が見つからず、食物原因説に傾くこともなく、歯切れの悪い曖昧な原因論を報告した。ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)とともに伝染病説を支持し続け、都築が栄養欠乏説に転換した。, 「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった[81]。都築は、動物脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年(明治43年)3月の調査会と4月の日本医学会で発表した。動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいることを公表したのである。また1911年(明治44年)、都築と志賀潔(1910年(明治43年)8月委員となる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効否試験を行った。その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値ではなかったものの、試験を重ねる価値は十分あった。しかし、都築が12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったため、米糠の効否試験は1年で終わった。, 都築は、翌1911年(明治44年)4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮[82]によって調査会でも発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのようにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり理解を示していたとの見解もある[83]。一方で森は、脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを否定、細菌原因説に固執していたとの見解もある[84])。その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するとともに、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した卓越した業績であった。さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通用する内容であり、特に副食への着眼は、先人の誰も気づいていないものだった。, 「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究に励み、ついにその製剤を治療薬として販売した(1911年(明治44年)4月アンチベリベリン粉末・丸などを販売。同年9月、注射液を販売)。有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)のアンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。, 農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)6月14日の東京化学会で、「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した[85]。ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること、白米は色々な成分が欠乏していることを認めた。糠の有効成分に強い興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出を目指して努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年(明治44年)1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。特に糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビタミンの概念をはっきり提示していた。ただし、糠の有効成分を濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶には至らなかった。1912年(明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、ピクリン酸を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した[86]。, しかし、1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられなかった(8年後の1919年、大正8年、ようやく島薗順次郎が初めてオリザニンを使った脚気治療報告を行った)。なお、上記のオリザニン結晶もニコチン酸を含む不純化合物で、純粋単離に成功するのが1931年(昭和6年)であった。その純粋単離の成功はオリザニンが販売されて20年後のことであり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三が「オリザニンの純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。, 都築に刺激されて調査会でも、1910年(明治43年)3月-10月と1911年(明治44年)6月〜翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた[87]。しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差があり、また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気発生の関係について明確な結論を得られなかった。他方、外国など各所の脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調査していた。特に東南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の欠乏による欠乏性疾患」と結論される段階にまで進んでいた。しかし国内では、依然として伝染病説と中毒説の勢いが強く、「未知栄養欠乏説」はなかなか受けいれられず、脚気の原因説を巡る混乱と葛藤が続いた。, 国内の脚気医学が混乱していた要因として、3つのことが挙げられる[88]。第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試により、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をもたらしたことである。端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気が同じなのか違うのか」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」が争点になったのである。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚気(多様な症状と流動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類似点と相違点のどちらを重要視するかのという選択の問題でもあった。その意味で、そもそも脚気患者を見たことがないヨーロッパの研究者と異なり、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤りといえない[注 8]。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行に便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究グループを抑制した。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気のギャップを埋める研究が必要であった。, 後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分かれた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時は、糠の不純物を取り除いて有効成分を純化するため、アルコールが使われていた。しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者特に重症患者に対し、顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復に向かうことが多かった)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。, 第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根強く信じられていたにもかかわらず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否定されることなく、1914年(大正3年)に内科学の権威である青山胤通が『脚気病論』を著し[89]、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張した。もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医界で受け入れられ、その後も根強い支持があった。当時の東京帝大では、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長與又郎・緒方知三郎)など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対していた。, 第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべてが不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが上記の通り1931年(昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オリザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。, 国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミン学が興隆しつつあった。カジュミシェ・フンクは1912年2月に「ビタミン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、1914年(大正3年)に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本でフンクの新概念が世界の医界で定着した。, 結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた。1917年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変説[90]。1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)がビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三委員が10月16日に代理報告)。1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9月、臨時委員となる)が日本食に脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱導。1921年(大正10年)、大森憲太(慶應義塾大学)と田口勝太(同)が別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違いないと主張した。1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。, 1922年(大正11年)10月28日、秋の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミンに関するものであった。翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加わったもの」なのかに絞られていた。そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予算2万円のうち8千円が使われることになった。1924年(大正13年)4月8日の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定した[91]。, 1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であることから、翌1925年(大正14年)6月3日、いつもの通り陸軍省第一会議室で報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があった。その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時からの最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる(元委員がすべて参加)。, なお、16年間に委員として39名、臨時委員として13名が参加した調査会では、上述の通り第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となるなど、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたと位置づける見解がある一方[92]、調査会のためにビタミン欠乏説の確定が遅れたとする見解もある[93]。松田 (1990) は調査会のあり方を「国産の栄養説に対してあれほど『俗論』とさげすんだ[94]彼らが、今度は外来の栄養説に対してはこれを肯定し、西欧のビタミン研究のあとを追うことになった」と指摘、「この調査会には、はじめから脚気の本当の病因を追及する意欲も能力もなかった」と総括している[95]。, 1925年(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止を受けて創設された[96]。翌1926年(大正15年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研究報告がなされた。特に東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」[注 9]が脚気に特効があることを報告した。さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面を拓いた。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策に絞られてきた。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学に向けられた。そして脚気病研究会は、以後、中絶された。, なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率が良くない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられる。, 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思い通りにならない中、突然「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した[97]。会員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸軍大臣所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じられることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年、昭和29年以降)として続く。, 1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、京都大学衛生学の藤原元典は、ニンニクとビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質が出来ると報告した。さらに藤原は、武田薬品工業研究部と提携して研究を進め、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分アリシンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリチアミン」と命名)[98]。また、アリチアミンは体内でB1に戻り、さらに腸管からの吸収がきわめて良く、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、という従来のビタミンB1にはない特性があることを報告した[99]。B1誘導体アリチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、その新物質の本体を解明するため、総力を挙げて研究が行われた。, また、藤原と提携して研究を進める武田薬品工業は、アリチアミンの製剤化に力を入れた。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する製品開発に努めた結果、ついに成功したのである。1954年(昭和29年)3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬の「アリナミン注」が発売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果を示した。その効果によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にも広く歓迎され、また同業他社を大いに刺激した。そして1968年(昭和43年)までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。, アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されることとなった。日本国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人と減少したのである[100]。, 1975年(昭和50年)には脚気が再燃し[5][6]、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といった、ビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった[7]。, 1975年(昭和50年)には、高カロリー輸液の点滴の際に「ビタミンB1欠乏症」が報告され、死亡を含む重症例が相次ぎ、1991年(平成3年)に厚生省は「緊急安全性情報」を出し調査を開始し[101]、調査の結果、1997年(平成9年)には、厚生省は高カロリー輸液の点滴の際に、ビタミンB1を投与するという通達を出した[8]。, 2014年(平成26年)にも、高齢者が食品購入の不自由さから、副食を食べず白米のみを食す食生活により、脚気発症が報告されている[102]。, 江戸時代に存在した俗信で「小僧は脚気の薬」と、若い男児と肛門性交をすると脚気の治癒に効果があるといわれていた。当然科学的な根拠は無いが「お住持の脚気は治り小僧は痔」といった川柳も残されている[103]。, 脚気に苦しんでいた明治天皇は、海軍や漢方医による食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学そのものへの不信を抱き、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたため、侍医団は天皇の糖尿病の悪化に対して有効な治療を取れなかったのではないか、ともいわれている[104]。, 明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学の栄養学の概念を取り入れ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取り入れ始めた。これが効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある[105]。, 南極大陸に高木岬と命名された岬がある。これはエイクマン、フンクなどビタミン研究に多大な功績のあった人を記念して命名された地名の一つであり、高木兼寛の業績が世界で高い評価を受けていることを示すものである。, 1910年に鈴木梅太郎が抽出したオリザニン(樹脂状の塊で、その後、結晶化に成功)は、, 1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人, 標準指定金給のポイントは、下士官以下の食料について定則の金額で現品を購入して給与すること、もう一つは食品の種類が規定されたことである。そうした変更により、海軍省は各艦の食事をコントロールしやすくなった。, 1890年に改正された「海軍糧食条令および糧食経理規定」以後、特に1900年以後の改正兵食に問題があった。1917年には、麦飯での麦比率が25%まで低下し、肉・魚・野菜も減っていた。しかも、嗜好食用として給与された現金で、兵員は渇望する白米を買っていたという。, 1900年6月に先遣隊が、7月に第5師団が派遣された。乱の鎮圧後、同年10月に派遣部隊の半分が、翌1901年7月に残り半分が凱旋した。, 5月に1万石の挽割麦を送ったという経理長官部の記録があるとされるが、その大半が変敗したという。, 脚気の医学知識に乏しいヨーロッパでは、「実験医学」の興隆期と重なったこともあり、神経麻痺の側面だけでニワトリ・ハトの白米病とヒトの脚気とを同一視することに違和感がなかった。もっともヨーロッパの研究者は、脚気患者を見たことのない者がほとんどで、文献による知識しかなかった。そのため、日本の研究者と異なり、脚気の多様な症状、流動的な病変を知らなかった。しかし当時の日本は、人畜同一視に文化的な抵抗感があり、また脚気研究の先進国であったため、動物の白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚気(多様な症状と流動的な病変)とを簡単に同一視しなかった。, 鈴木梅太郎が抽出した当初のオリザニン結晶はニコチン酸を含む不純化合物であり、その純粋単離に成功したのは香川報告の前年に当たる1931年。, 1934年の朝鮮半島での旱魃(かんばつ)、1938年末からの朝鮮米・台湾米の移入減少(現地での米消費の拡大)。野本京子、352頁。, 「米穀搗精(とうせい)制限令」(需給調整の手段として、酒造米など加工米の制限のほか、つき減りを少なく(精白度を低く)し、食用米(粗精米)を増やす意図)が公布された。, 脚気菌が見つからないものの、脚気が都市に集中すること(地域性)、兵営や寄宿舎や監獄など大勢が群がって暮らす所で発生が増えること、夏に流行して冬に流行しないこと(季節性)、若者が罹りやすいこと、また死体解剖で神経の病変が細菌とその毒で冒される多発神経炎に似ていること等を根拠に、伝染病説が主張された。, 大沢謙二は、反駁する演説を行った翌年に高木に対して、「高木さん先年はどうも失礼しました。ああいう演説はしましたが、その後家の書生から、病気にかかったので麦飯をやってみたらすっかり調子がよくなった、という話を聞きました。私など, 山下は、「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはない。核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」と指摘した。, 「海軍糧食条例」が公布された1890年と1924年について海軍航海食の一日量を比較すると、乾パンが半減(100匁→45匁)したのに対し、白米が倍増(50匁(ただし週6日の給与)→90匁)した。, 海陸生(匿名)「最早脚気問題にあらず」『医海時報』1907年6月29日〔山下による要旨の一部〕。, 1941年の海軍は、脚気患者3,079人(うち入院605人)のほか、脚気が混入しやすい神経疾患も、神経痛1,907人(395人)、神経衰弱501人(378人)、抹消神経麻痺117人(59人)、その他の神経系疾患689人(141人)であった。, 「海軍の脚気は根絶した」という先入観により、脚気を見落としていた可能性がある。たとえば、昭和40年代後半、神経学会で原因不明の「急性特発性神経炎」の症例が報告され、「新病あらわる」という騒ぎになった。しかし、よく調べると、単なる脚気であった。, 刊行されたのは日露戦争後の1907年(明治40年)であった。陸軍各部隊の衛生実況は、戦後の早い時期に提出されていた。しかし、肝心の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』(巻頭に「部外秘密」のマル秘ふせん)は、1896年12月に編纂が開始されたものの、完成したのが10年以上たった日露戦争後の1907年3月末であり、刊行が大幅に遅れた。ひとえに「脚気」編の遅れであり、その編纂委員の任命は、1903年7月と、同書の編纂開始から6年半もの空白があった。それも「脚気」編を担当したのは、日清戦争の終結年に医学部を卒業した軍医であった。, 『明治二十七八年日清戦争史』第八巻・付録第121減耗人員階級別一覧。1894年7月25日〜1895年11月18日の値。ただし内地勤務者は、5月13日まで。, 政府の公式発表。ただし戦死説、暗殺説、自殺説もある。末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年、95-100頁。, 朝鮮は357日間、清国は437日間、台湾は306日間、内地は574日間の値であり、また延人員もそれぞれ異なる。(, 北京の前田軍医部長は、医務局に対して「日本米の支給で脚気患者を出し、中国米の支給で脚気を著しく抑えた。脚気に効果があるとされる麦飯の支給を希望しているが、麦の追送が未着である」等の報告をした。その前田報告は、『軍医学会雑誌』(1901年5月)に掲載された。なお、前田報告にある中国米は、精白度の低い粗精米と推測される。(, 訓示(1901年10月):「脚気は病原いまだ明ならざるをもって、その予防の方法もいまだ審(つまびら)かならず。ただ経験上麦飯を効あるとなすのみ。第5師団軍医部の報告中には支那米もまたその効ありとなせり。脚気に発病には、時因地因の関係あることは、統計上疑ふべからずをもって、合理的にその効否を判するには、同一地において同時に麦飯・支那米・日本米を約同数の兵員に分給し、もってその成績を徴すべし。これ我軍隊の脚気予防上新事実を挙げ得るの益あればなり。」(注:原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述), 海軍でも麦飯は不人気で、「兵員の銀飯(白米飯)に対する憧れは非常なもので、本日は銀飯だと聞くと、兵員一同万歳を三唱し君ケ代を斉唱する、等と半ば冗談にいわれたことがある。……。また、米麦食の米の方の消費が多くなって麦が余り、それを夜こっそり海に捨てていたこともある。」とされるような内情であった。瀬間喬『日本海軍食生活史話』, 本文の2資料は、主に「入院後病床日誌」に基づくため、実際の戦病者はもっと多いとされる。, 事務所は1908年6月27日陸軍省告示第20号で陸軍省内に設置。『官報』第7500号、明治41年6月27日。, 当初の委員は1908年6月23日付けで17名が発令された。『官報』第7497号、明治41年6月24日。, このときコッホは、海軍で食物による脚気根絶が試みられていることは知っており、「原因の研究は後回しにして、診断法を確立するのが先である。天然痘なども原因は明らかではないが、診断法は確立していて、脚気もそれにならうべきである」と説いている(吉村, 1990, 下巻 P.235)。, 都築は、冒頭部で「報告せんとするに当たり、謹(つつしみ)て特別の庇護を与へられたる臨時脚気病調査会長、森閣下の厚意を鳴謝す」と述べた(注:原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述。なお当時、森のような, 岡崎桂一郎の「日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考」(1912) に寄せた序文で、森は「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している。, 本書で青山は、脚気が栄養不給によるものとするエイクマンの説を紹介し、「高木兼寛氏の『脚気米食論』はこれにもとづくものなり」と書いている。実際にはエイクマンの提唱は高木の業績より15年後のことであった。青山は「ぬかで脚気が治るなら、馬の小便でも治る」とも公言していた。松田(1990)、P.112-117。, 田沢鐐二(臨時委員)は、もともと強硬な無効説派であったが、1916年5月29日に欧州留学を終えて帰国していた。その田沢は、翌1917年9月に調査会で、10月に東京医学会総会で精糠エキスを「有効」と認定する報告をした(連名報告者の筆頭が, 板倉(1988)。さらに坂内(2001)は、初代の森委員長が最後まで細菌説に固執したとし(, 「イギリス流の偏屈学者」(森林太郎)、「1、2の偏信者」(石黒 忠悳)、「高木君の例にならって、イヌの糞何匁、みそ何匁、木炭何匁」(大沢謙二)、「ぬかで脚気が治るなら、馬の小便でも治る」(青山胤通)など(吉村 (1994) 下巻 pp.176-177、松田 (1990)、pp.98-104, 117), その天皇と侍医団の確執については、遠藤正治「明治期の侍医制度と池田文書」(所収:吉田忠/深瀬泰旦 編『東と西の医療文化』(思文閣出版、2001年)に詳しい。なお当時は、糖尿病の発病メカニズムが解明されておらず、有効な療法が実用化されていなかった。, 心拡大,高度浮腫を伴った急性多発性神経炎-続-その疫学ならびに成因としてのビタミンB1欠乏症, Allithiamine, a Newly Found Compound of Vitamin B1, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=日本の脚気史&oldid=78930112, 野本京子「都市生活者の食生活・食糧問題」、戦後日本の食料・農業・農村編集委員会編『戦時体制期』、農林統計協会、2003年。.